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 第13回「南極の歴史」講話会 (2013年6月22日)
   - 故 小口高 氏の業績と人柄を紹介 -


★隊長 “小口 高” を語る
 福井徹郎
(12次越冬)

   

★オーロラに魅せられた男 “小口 高”
 国分 征
(7次、13次越冬、18次,32次夏)

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  2013年6月22日14時より、一橋大学一橋講堂2階中会議室で、第13回「南極の歴史」講話会が開催された。
当日の話題は、第1次から3次隊に参加され、第12次隊では観測隊長兼越冬隊長を務められた、故 小口高 氏の業績等を紹介する講演でした。12次越冬隊に参加した福井徹郎氏から「隊長“小口 高”を語る」、また、国分征会長からは「オーロラに魅せられた男 小口 高」のテーマで話題提供いただいた。


★ 「隊長“小口 高”を語る」
      福井徹郎(12次越冬)

 第12次隊はこれまで五十数回に及ぶ南極観測隊の中で、おそらく最も特殊な隊と言えるであろう。観測船「ふじ」が、就航して初めて昭和基地到着前に、40日間(1971年1月1日から2月10日まで)帰路でも14日間、海氷に閉じ込められて身動きできない状態に陥った。そのため日本を出てから帰国するまでの日数は歴代観測隊で最も長かった。一方、昭和基地に滞在した日数は、最も短くて1年にも満たなかった。(2012年刊:極地研ライブラリー「氷海に閉ざされた1296時間」(成山堂書店)の小口氏による序文より)
 1958年の第3回国際地球観測年(IGY)に南極観測を実施することが大きなテーマとなったのを受けて、日本学術会議が南極観測を実施し、朝日新聞が後援することとなった。ここに至るまでに南極観測の実現に向けて永田武東大教授が、国際的、国内的に強力な推進役であったことはよく知られている。1955年の秋、当時大学院生であった小口氏は、永田教授に呼び出されて、「僕は南極の隊長をやらされることになりそうなのだが、もし南極に行くことになったら君は一緒に来てくれるかね」と真剣な表情で言われて、その場で「是非連れて行ってください」と答えたのが南極との関わり始めであったという。当時も自薦他薦で南極行を希望する人は多かった中で、永田教授は、小口氏の資質を買っていたのであろう。この時御両親には、南極には行ってもよいが越冬はダメと言われていたが、「行ってしまえばこっちのもの」と思っていたそうである。
 第1次隊では、天候不順に悩まされ、いたるところにあるクラックやパドルを避けながら約50kmを雪上車で物資の輸送をし、基地を開設して、越冬隊の成立にこぎつけた。その帰途氷上が悪化して、「宗谷」はビセットされオビ号の救援を受けた。
本観測を目指した第2次隊は、天候に恵まれず、氷の状態も悪かったため、ぎりぎりのところで第1次越冬隊を収容するのが精一杯で、カラフト犬たちを連れ帰ることは出来なかった。第3次隊では航空輸送能力が向上したこともあって、無事に越冬隊が成立し、小口氏は地球物理担当隊員として越冬することになった。
 6次隊以来中断していた南極観測は、新造船「ふじ」の就航を待って第7次隊から再開された。以来スクリューを折るなどの事故はあったが、昭和基地に接岸することが当然のことのようになっていた。この間、小口隊長は超高層観測分野をリードしてこられ、12次隊隊長としてオーロラ観測ロケット打ち上げの指揮を執ることとなった。「ふじ」が接岸することを前提として、ロケットを大型コンテナで輸送する計画が示された時、過去の経験に基づき小口隊長は、ヘリによる機内輸送が可能なように分解して梱包することを主張された。これによって、「ふじ」がビセットされたにもかかわらず、ロケットを基地に搬入することが出来たのである。ロケットはオーロラの活動を監視しながら最適のタイミングで打ち上げなければならない。このためには、冬季の低温の中でロケットに搭載するセンサーを常温で待機させなければならないので、ロケットと発射台を鉄骨のドーム(およそ直径20m、高さ15m)で覆い、内部を保温する計画であった。このドームも搬入できなかったために、ロケット観測は断念か、という事態になった。国内であれば当然打ち上げ延期である。しかし、隊長を中心に検討した結果、基地に残置されていた鉄材を使って発射台にロケットを囲む枠を組みつけ、周囲を園芸用のビニールで覆い、天井には紙を貼って、温風を送り込んでロケットを保温して、打ち上げまで待機することにした。紙とビニールを吹き飛ばして飛翔したロケットはオーロラの活動を見事に記録した。打ち上げ後は、ビニールと紙をはりかえれば次号機の打ち上げ準備完了である。国内の常識では考えられないこの方法で、12次隊は7機の打ち上げに成功した。12次隊以降もこの方式は踏襲され、ロケット観測に大いに貢献した。
 小口氏が第1次隊から3次隊までの観測隊に参加する中で、自然条件の厳しさや、現地と国内における観測隊運営の困難さを経験したことが、12次隊において予期せぬ出来事に次々と遭遇しながらも、オーロラの中に7機のロケットを打ち込んで観測を行ったこと、冬季の暗夜と低温に苦しめられながらも南極大陸内部に新たに基地を建設し、深さ75mまでのボーリングを行ったことなどに生かされている。次隊以降のロケット観測の継続、後年の大陸奥地での3kmに及ぶ深層ボーリングの基礎を築くことが出来たのは、小口氏が経験に基づいて立てた計画を実行に移していったリーダーシップによるところが大きい。
 困難な条件の中でようやく越冬が成立した時の国内への報告や、羽田空港での帰国報告会見で、昭和基地におけるごみ処理対策の重要性を指摘したことが報道された。今ではごみの持ち帰りは当然のこととなっているが、小口氏の先見性を示す一つの例であろう。
 小口氏は、南極観測を発展・深化させる上で大いに貢献されたが、残念ながら2010年12月に逝去された。心より御冥福をお祈りします。


★ 「オーロラに魅せられた男 小口 高」
    国分 征(7次、13次越冬、18次,32次夏)

国際地球観測年(IGY)に始まる南極観測の第1次隊から参加し、3次越冬観測により我が国の極地における地磁気、オーロラの観測・研究に先駆的な役割を果した小口さんは、北極域における観測においても先駆的な役割を果たした。3次越冬隊の記録「14人と5匹の越冬隊:1年遅れの本観測」には、越冬中の1959年7月に起こった大磁気嵐に伴い3日3晩にわたって全天を染めた深紅のオーロラを経験したことが、オーロラを研究の中心に据えようと思い立った理由の一つということが記されている。3次隊の昭和基地観測により、オーロラ、地磁気・電離圏変動の相互関係を明らかにしたが、その後12次越冬時に新しいオーロラTV観測を始め、オーロラに魅せられた男ともいうべき研究を展開した。
12次隊(1970−72)では、観測隊長として初めての越冬ロケット観測を遂行する立場にあったが、自らの観測テーマにこだわり、超高感度TVカメラによるオーロラ観測を行った。当時まだ開発段階にあった暗視TVカメラを東芝から借り受け、オーロラ動態の観測に取り組んだのである。この時の観測により、その後のオーロラ研究・観測につながる重要な知見を得た。TVにより得られた実時間画像データの詳細な解析により、シート状オーロラの変形・回転が現象のスケールによらずフラクタル的な様相を示すこと、オーロラの出現モード、変形のパターンや出現の地方時依存、プロトンオーロラの発達過程などオーロラのダイナミックな形態について、新たな理解を与えたのである。
7次の昭和基地再開から1974年の極地研究所設立までは、超高層関連の観測は、小口さんの主導のもとに実施されたといってよい。しかしながら国際磁気圏観測計画を契機に、1970年代後半以降は、時間的空間的な制約の多い南極観測から離れ、北極域におけるオーロラの広域観測に主力を注いだ。
1980年1月〜2月には、カナダの研究グループによるロケット脈動オーロラキャンペーンに参加、オーロラTV、磁場変動、自然電波観測を行った。また、スバルバール科学調査(1983-1988)では、教育社極地研究グループ(立見辰雄、小口高、松田達郎、樋口敬二)の一人として、スバルバール、ニューオルソンにおける観測を始めた。1985年12月〜1986年2月には、東京大学、九州大学、ブリティシュ・コロンビア大学他、国内外の9研究機関のサポートによる(スバルバールにおける観測のサポートは教育社)広域オーロラ動態キャンペーンを主導した。このキャンペーンでは、オーロラTV9点、VLF波動受信器や磁力計をカナダを中心にニューオルソンを含め、ほぼ40点に配置した。少しでも多くの観測機器をと、自ら高感度TVカメラを組み立てた。また、磁力計などのセンサー類は、すべて研究室で製作し、当時はまだネットワークもないアナログ時代だったが、高時間分解能の観測データ取得を目指した革新的な多点観測キャンペーンを実現した。
1989年には、名古屋大学空電研究所に所長として転任し、その後、太陽地球環境(STE)研究所の創設に尽力し、初代所長として現在のSTE研の礎を築いた。所長として多忙な中、オーロラ研究成果をまとめるべく常に原稿を手元に置き、執筆を続けておられたようだったが、車中荒らしに遭い記録メディアが紛失しまい、名古屋大学在任中には出版に至らなかった。退職後も執筆を続けられ、原稿はSTE研に託された。これを編集した「オーロラの物理学入門」がSTE研20周年記念事業の一環として公表されている。
小口さんは南極観測から始まり北極域での広域観測を展開し、オーロラに魅せられた研究者として、3次越冬の経験からオーロラを研究の中心に据えようとした思いを貫き実現したと思う。


<以上、南極OB会報 第20号から引用>