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 第3回「南極の歴史」講話会 白瀬矗の求極人生 (2009年9月26日)


★100年前の北極点到達報道
 小野 延雄 (3次越冬)


★北極(アラスカ)体験と阿部敬介
 楠 宏 
  (1次夏、8次夏、10次越冬、
   14次夏、18次越冬)

 

★開南丸出帆の地・
       芝浦埠頭公園記念碑

 湯川 武弘氏

 

★両極点到達のアムンゼン来日
 小野 延雄


★バード南極地図とイワール・ハムレ氏
 楠 宏

★未刊自叙伝原稿とへなぶり集の発見
 湯川 武弘

 
案内資料:案内資料  当日の写真:写真を見る

 白瀬探検隊100周年を記念して2部構成の講話会でした。

★「100年前の北極点到達報道」 小野 延雄
 丁度100年前になる1909年の9月3日の東京朝日新聞に「米人北極探検成功」の特電記事が載った。クック博士が前年4月21日に北極点に到達していたとの報道であった。5日後の8日の新聞には「第二の北極発見」の記事が載った。
1909年4月6日にピアリーとヘンソンが北極点に着いたとの特電であった。先陣争いでピアリーに軍配が上がって決着するのは2,3年後であるが、北極を目指していた白瀬が目標を南極に切り替えるのは翌年であった。
 1910年7月5日、東京神田の錦輝館で南極探検発表演説会が開催された。錦輝館は今の東京電機大学の地にあり、関東最初の活動写真映画館であった。熱気に満ちたこの発表演説会の様子は、神戸ヘラルド新聞が報じて英国の新聞にも載った。アムンセンが「マディラにて、我れ南極に向かう」と宣言した時、白瀬が南極に向かうことを知っていたのは、この報道によるのであろう。

★「北極(アラスカ)体験と阿部敬介」 楠 宏
 白瀬矗の著書や講演によれば千島の占守島から米国のラッコ密猟船に便乗してアラスカのバローに行き、阿部敬介に会ったことになっている。阿部敬介は宮城県利府町の出身で1864年生まれ、米国に渡り1888年税関巡邏船ベアー号(ヒーリー船長)の乗組員になって4年、バローの合衆国避難所には3年くらい勤務した。1984年(明治27年)に一時帰国し、暮れに東京地学協会でアラスカ事情の講演をした。講演録は翌年10月に、阿部敬介著「北氷洋洲及アラスカ沿海見聞録」として東京地学協会から出版されたが、敬介は既に2月に再渡米していた。白瀬がアラスカに行ったとする年月には2,3の説があるが、バローで敬介と会うとなると敬介側の資料と整合しない。本を読むか、日本で会って思い込んだのかもしれない。


★「開南丸出帆の地・芝浦埠頭公園記念碑」 湯川 武弘
 開南丸は1910(明治43)年11月29日に芝浦を出帆したが、当時この付近は遠浅だったので沖繄りであった。ロセッタホテルの桟橋から艀船で乗り移って出発となった。その後この海は埋め立てられ、出帆25周年の1936(昭和11)年に抜錨の地に南極探検隊記念碑が建てられて埠頭公園となったが、その後忘れられて荒れ放題となっていた。それを湯川が発見し、港区に働きかけて昭和57年度の予算で修復した。 羽根が折れていたペンギン像は朝倉文夫作であったと分って新しく復元し、修理した原像は白瀬の出身地秋田の金浦町に移管した。この碑の隣に砕氷艦初代しらせのスクリューブレード1枚が置かれることになっている。

(休憩後の後半は帰国後の話題を紹介)

★「両極点到達のアムンセン来日」 小野 延雄
 アムンセンは1925年、スピッツベルゲン島のキングスベイから2機の飛行艇で北極点に向けて飛び立ったが、故障で北緯8 8 度の手前で断念する。
翌1926年5月12日飛行船ノルゲ号で北極点上空を通過してアラスカまで飛び、最初の両極点到達者になった。取材していた報知新聞が招聘して1927(昭和2)年にアムンセンが来日、白瀬との会見が実現した。白瀬はその数年前の1920(大正9)年に、帝国議会に「飛行機南北両極探検」の請願書を提出している。ファーイースト誌の記者の取材を受け、その記事が掲載されると、それに刺激されたシャックルトンがクエスト号に乗って4回目の南極探検に出かけ、船上で病死して最後の航海となった。

★「バード南極地図とイワール・ハムレ氏」 楠 宏
 バードが命名したヘレンワシントン湾とハールフラッド湾を記載した南極地図(1932)が、白瀬の「南極記」に基づき翌1933年バードの論文によって、それぞれ開南湾、大隈湾に改名されたことが示された。その1933年にノルウェーの捕鯨監督官で親日家のイワール・ハムレ(岩留漢礼)氏が英国地理学雑誌に日本南極探検隊の記事を投稿した。これは新聞記事以外で最初の白瀬隊の英文記録であり、米国のポーラータイムスにも転載された。

★「未刊自叙伝原稿とへなぶり集の発見」 湯川 武弘
 1983(昭和58)年、小樽市稲穂の石川保宅に白瀬の未刊の「自叙伝原稿」と、狂歌を集めた「へなぶり集」が保存されていたのを湯川が見つけた。
 白瀬矗が昭和9年に所用で小樽を訪れたとき石川保氏の父、石川竹之助(稲穂郵便局長)と意気投合して正しい探検記録を残したいとの話になり、石川氏が出版の仲介をすることになって、白瀬が自叙伝原稿などを少しずつ書き送っていたのだという。だが日支事変以降の情勢の影響などもあって未刊に終わったものらしい。
 発見の1983年は砕氷艦しらせの初航海の年で、湯川は石川保氏を国内巡行で小樽に入港したしらせに案内した。

「結び・Q&A」(小野)では,2,3の小話類が紹介された。
・昭和4年3月にスコット極地研究所のような研究所を日本も持とうと「探検奨励機関御設置相成度義ニ付請願」を石川貞治氏と連盟で準備していたが、石川氏の急逝により提出されなかった。
・シャックルトンのニムロド号英国南極探検のとき、バリア入江の棚氷が欠けており、出来た湾をホエールズ湾と命名した(1908)。それから92年経った2000年5月の衛星写真に、この付近の棚氷が大きく割れて流出する様子が捉えられている。

<以上、南極OB会報 第9号から引用>
http://www.jare.org/jareOB_Hc/ob_magazine/