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■ 第4回『南極の歴史』講話会 ◆ 南極観測と報道2010.2.27

演題: 『南極観測と報道――敗戦後の日本国民を奮い立たせた夢とロマン』
講師: 深瀬 和巳、隈部 紀生、柴田 鉄治

会場: 日本大学理工学部1号館 131教室
当日の写真はこちら↓
http://www.jare.org/cgi/photoview/view37.cgi?mode=frame&cno=22

今回のテーマは「南極観測と報道―敗戦後の国民を奮い立たせた夢とロマン」。南極報道に携わった元共同通信記者深瀬和巳氏、元NHK記者隈部紀生氏、元朝日新聞記者柴田鉄治氏が講演した。

   
★『何でもニュースになった時代――「宗谷」、「オビ号」、タロ、ジロ』
 深瀬 和巳氏(元共同通信記者、第3次報道隊員、第7次隊同行記者)

「宗谷」時代の報道協定
 日本の南極観測事業にとって、1955年(昭和30年)は、重要な節目の年である。ICSU(国際学術連合会議)が1957年に、第3回極年(国際地球観測年=IGY)を1957年から1958年にかけて実施することを決め、日本も参加するため準備を始めた。この時南極地域は観測の対象になっていなかったが、ICSUは1955年1月になって、南極地域を観測の対象に加えることになり、9カ国が直ちに参加を表明した。
 日本はどうするか、朝日新聞の強い支援表明もあり、ブリュッセルで9月に開かれた南極会議で日本は参加を表明、プリンスハラルド海岸での観測を要請された。これを受けて日本学術会議茅誠司会長が国民の協力を要請する談話を発表、朝日新聞も「全社を挙げて協力する」との社告を出し、11月4日の閣議で日本の参加を正式に決めたのであった。
 南極観測参加への動きは各新聞社が大きく報じ、未知の大陸に挑む壮挙に、国民の関心は急速に高まった。報道機関も記者の派遣を熱望するようになった。そこで日本新聞協会で検討した結果、概略次のような報道協定をまとめた。@朝日新聞、共同通信から各1人の記者を派遣するA文相はこの2人に「隊員」を委嘱し、国家公務員の身分になるBプール原稿のほかに朝日新聞用に特別枠の記事・写真を認めるC文部省内に「南極記者会」を新設し、報道の円滑化を図る。――
この制度によって、「宗谷」時代の第4次隊まで計8人が「隊員」として南極に向かい、7次の「ふじ」以降は、自由な「同行記者」制度に変わり、現在に至っている。
1956年秋に「宗谷」は第1次隊を乗せ東京港を出港、オングル島に「昭和基地」を建設し、11人の越冬隊を残すことができた。帰りに海氷に阻まれ、ソ連(当時)のオビ号に救出されたが、概ね順調で、南極からの報道を国民は待ちわび、一喜一憂しながら日本隊の活躍に声援を送った。
 IGYの中心となる第2次隊は「本観測隊」と呼ばれ、満を持して昭和基地に向かったが、手前で海氷に挟まれ身動きできなくなった。米国のバートンアイランド号の救援を受けたが打開できず、1次の越冬隊を小型飛行機で辛うじて救出しただけで越冬を断念せざるを得なかった。心ならずも1次の越冬隊と共に活躍した15頭の犬を基地に残したままの撤収だった。国内だけでなく外国からも厳しい非難を浴びることになった。

「タロ」「ジロ」生存のなぞ
この経験から3次は「宗谷」をヘリ空母に改装、空輸方式を成功させた。1番機は2頭の犬の生存を発見、タロ、ジロの兄弟犬だと分った。私はこの3次の隊員として参加し、この大ニュースに遭遇した。日本国内はもちろん世界中でこの話題で沸き立った。
しかしその後がたいへんだった。「何を食べていたのか」「どんな生活をしていたのか」「ほかに生存犬はいないのか」との問い合わせが殺到した。犬の言葉が分らない私は、タロ、ジロの前で「話ができればなあ」と困惑したのだった。
 映画「南極物語」では、高倉健が扮する隊員に、氷原の彼方からタロとジロが一目散に駆け寄ってくる名場面が感動を呼んだ。
しかし1次越冬で犬係りをし、3次隊で再び昭和基地に来て、生存していた2頭の犬がタロとジロだと確認した北村泰一隊員は、実際は映画とは違っていたと言う。基地に着いた北村隊員に、2頭の犬は警戒して後ずさりをした。北村隊員が黒い犬の名を次々に呼びかけたが反応がなく、当時子犬だったタロとジロの名を呼んだとき、しっぽが振られ、後は映画のように抱きしめ、再会を喜んだのだそうだ。
 当時テレビは誕生したばかりで、新聞とラジオの時代、頼信紙にカタカナで原稿を書き、通信士にモールス信号で送ってもらっていた。見たもの、聞いたもの、体感したものがすべてニュースになる南極報道の黎明期だった。


★『テレビは南極観測をどう報じたか――極点旅行取材と生中継の魅力を中心に』 
 隈部 紀生氏(元NHK記者、南極点で第9次の極点旅行隊を取材)

 日本で最初の南極観測船「宗谷」が出港した1956年11月は、日本のテレビ放送が始まってまだ3年余りのときだったが、南極観測が国を挙げての大事業だったため「宗谷」の出航式はテレビで生中継された。
しかし「宗谷」の時代に南極観測に同行したのは新聞、通信社、映画の人たちだけだった。1965年に南極観測が再開されて、第7次隊の「ふじ」に同行して16ミリフィルムで取材し、帰国後初めてテレビ番組で昭和基地の様子を伝えた(以下一部映像、画像を使用)。民放も9次隊から同行を始めた。
日本の南極観測の初期の大きな目標は昭和基地から南極点まで陸路往復5,200キロの極点旅行だったが、報道陣の同行は認められず、朝日、共同、NHKの3社が南極点のアメリカの基地に先行して旅行隊の雪上車を待ち受けて取材した。このときの映像は旅行隊の隊員が撮影した8ミリフィルムの映像とともに1969年1月に放送された。
その後10次隊でテレビカメラマンがはじめて越冬して年間を通してフィルム取材をしたのに続いて、テレビは今を伝えるメディアであるため昭和基地から生中継をする計画が進められた。生中継にはパラボラアンテナをはじめたくさんの機材と要員が必要で、生中継が行われた第20次隊(1978年〜)が運んだ放送機材は30トンに及んだ。しかも78年は氷が厚く昭和基地の手前70キロからヘリコプターで空輸しなければならなかったが、「ふじ」の乗組員や観測隊の協力でやっとパラボラアンテナが建設され、1979年1月28日昭和基地から初めてのテレビ生中継放送が実現した(写真参照)。これは世界でも初めての南極地域からのテレビ生中継であり、越冬した隊員と東京にいる留守家族が初めて生中継を通じて対面した。
2003年は日本のテレビ放送開始50周年に当たり、昭和基地の近くで皆既日食が見られる年でもあったため、NHKは越冬をして年間を通して生中継することになった。この生中継は初めてハイビジョンの鮮明な映像で行われ、特に2003年11月24日には皆既日食帯にあるロシアのノボラザレフスカヤ基地、昭和基地に近いペンギン・ルーカリー、そして皆既日食帯上空を飛ぶジェット機の3か所から多元中継で白い大陸の黒い太陽が生放送された。またオーロラの中継、日本の観測隊がいち早く見つけた南極上空のオゾンホールについての専門家の解説なども放送され、1年間で生放送は153回に達した。
今後は何がテレビ放送の対象になるか。これについてはまず昭和基地と日本の間の通信事情が画期的に改善されたことを考えなければならない。今では通信衛星で常時インターネット接続でき、動画の伝送もできるようになった。テレビ会議システムを使って南極教室がたびたび行われ、昭和基地の現在の姿が静止画でいつでも誰でも見られるようになっている。今後放送の方がネットの映像を利用することも出てくるだろうし、地球温暖化の定点観測地点としての役割に加えて、何が日本の南極観測の焦点になるか、将来ビジョンとのかかわりを考えていく必要がある。


★『南極観測における報道の役割――彩った人々とこれからの課題』
 柴田 鉄治氏 (元朝日新聞記者、第7次隊同行記者、
         南極点で第9次旅行隊を取材、第47隊にオブザーバーとして同行)

日本の南極観測を語るとき、報道の役割を抜きにして論じることはできない。南極観測への参加は、ただ単に国際地球観測年(IGY)の国際協力活動に参画するというだけでなく、敗戦に打ちひしがれ、ひたすら復興に励んできた国民に対して、日ごろの閉塞感を吹き飛ばし、夢とロマンを与える画期的な行事だったからである。
そもそもの発端からして、報道がらみ、朝日新聞社の提唱で動き出した企画だったのだ。言い出したのは、同社の矢田喜美雄記者で、1955年3月、「北極と南極」という連載記事を取材していたとき、IGYの活動の一つとして各国が協力して南極観測に挑もうという計画が進んでいることを知って、「日本も参加できないだろうか」と考えた。
矢田記者は、そのアイデアを当時の朝日新聞社の事実上のトップ、信夫韓一郎専務に伝えたところ、「それは面白い」とすぐ乗ってきた。信夫専務は、同社から出している科学雑誌「科学朝日」の編集長、半沢朔一郎氏を呼び、矢田記者と二人でさらに詳しく調べるように指示した。
二人はまず、日本学術会議会長の茅誠司氏、IGY特別委員会日本代表の永田武・東大教授を訪ねると、両氏とも「私たちは、とても行かれぬと諦めていた。朝日新聞が応援してくれるなら願ってもないこと。ぜひ実現させたい」と賛同してくれた。他の学者たちもみんな賛成で、一気に実現に向けて動き出したのである。
のちに朝日新聞社内に設けられた南極事務局の事務局長を勤めた半沢氏が、「矢田記者と信夫専務と茅会長、この3人がいなかったら日本の南極観測は生まれていなかっただろう」と語っていたのを聞いたことがある。
南極観測をやろうと思いついた矢田記者という人は、いつもユニークな発想をする型破りの社会部記者で、下山国鉄総裁が轢死体で発見された戦後の難事件、下山事件でも数々のスクープを連発した名物記者だった。
学生時代、走り高跳びの選手としてベルリン・オリンピックに出場し、5位に入賞したという輝かしい実績を持ち、その後、小学校の教員を経て新聞記者になったという変り種でもある。
敗戦後のまだ貧しかった日本が南極へ観測隊を送り出すというのは、まさに破天荒の企画であり、「翔んだ男のとんでもない発想」がなかったら生まれなかっただろうと、いわれたものだ。
矢田記者の提案にすぐ乗った信夫専務という人も型破りの新聞人だった。敗戦後の国民を元気づけるのに最適の企画だと見破った眼力はなかなかのもので、学者を集めた会合で「日本の曇り空にみなさんの力で大きな青い窓を開けてください」と挨拶したことにもそのことが表れている。
矢田記者の最初の考えでは、朝日新聞社が船をチャーターし学者たちを乗せて行くという構想だったが、そういうわけにはいかず、国家事業にならざるを得なかった。
とはいえ、南極に詳しい官庁などはなく、裏方の準備作業はほとんど朝日新聞社がやった。最初の予算要求も、その原案は半沢、矢田両記者が徹夜で作成したものだったといわれている。
こうして国民の熱狂的な声援のなか日本の南極観測事業がスタートしたのだが、朝日新聞社の支援活動は、物心両面にわたって大きなものだった。読者に募金を呼びかけるとともに自らも1億円を寄付、また、1次隊の「宗谷」に積み込まれた小型機「さちかぜ」も、随伴船の「海鷹丸」に積まれたヘリコプター「ペンギン号」も朝日新聞社の社機で、パイロットや整備員も同社の航空部員が担当したのである。
昭和基地が建設され、第1次越冬隊11人が南極で1年を過ごしたが、そのなかの2人、報道・設営担当の藤井恒男隊員と通信担当の作間敏夫隊員は、朝日新聞社員だった。藤井氏は帰国後、全国を講演して回ったが、「南極で小便をすると、そのまま氷のツララとなる」といった真っ赤なウソをまじえて聴衆を煙に巻く愉快な人だった。
このほか、南極からの報道に当たった高木四郎(1次)疋田桂一郎(2次)山本武(3次)犬塚堯(4次)…といった記者群像も、多彩な、いや多才なユニークな人々である。
報道の提唱によって生まれ、報道に支えられて発展してきた日本の南極観測――これからの課題を考えるとき、報道の役割はますます重要になってくると私は考えている。
というのは、地球と人類の未来にとって最も大切なことは「世界の平和」と「地球環境の保全」であろう。この世界平和と地球環境を守るカギは「南極」が握っていると思うからだ。
南極は、61年に発効した南極条約によって、地球で唯一の「国境もなければ軍事基地もない」平和な地である。南極では各国の基地を訪ねるときパスポートもビザもいらないし、科学観測では各国が協力し合っているのだ。
世界中が南極のようになれば戦争なんか起こらなくなろう。たとえば、南極条約ができる前には領土権を主張していた英国とアルゼンチンとの間で旗を奪い合うようなトラブルもあったが、いまや南極大陸は人類の共有財産となって、領土権争いなどは存在しない。日本と韓国の間で領有を争っている竹島なども、南極条約の知恵を借りれば簡単に解決するに違いない。
一方、「地球の病気はまず南極に現れる」という言葉があるように、南極は地球環境のバロメーターであり、南極観測の重要性はますます高まっている。南極は世界で最も環境保全の厳しい地域となっており、環境を守るために資源開発まで禁止しているのである。
南極とは対照的に、地球温暖化で氷の減っている北極がいまとても生臭くなっている。ロシアが海底に国旗を立てたり、カナダが北西航路の通行権を主張したり、しているのだ。北極にも早く南極条約のような取り決めをつくる必要がある。こうした南極の素晴らしさを人々に知らせ、世界に広げていくのは報道の役割だ。敗戦後のあの時代に南極観測への参加を提唱し、国民を元気づけた報道が、今後は地球と人類の未来のために、「世界中を南極にしよう」「愛国心ではなく、愛地球心を」と、次代を担う国民に訴えていくことを期待したい。

<以上、南極OB会報 第10号から引用>
http://www.jare.org/jareOB_Hc/ob_magazine/