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■ 第1回『南極の歴史』講話会 ◆ 南極点への道2009.3.14

演題: 南極点到達40周年記念「南極点への道」
講師: 川崎 巖、松浦 光利、吉田 栄夫、藤原 健蔵

会場: 日本大学理工学部1号館
当日の写真はこちら↓
http://www.jare.org/cgi/photoview/view37.cgi?mode=frame&cno=31

第9次隊の昭和基地―南極点往復トラバース成功は、この大プロジェクトを目指して努力してきたそれまでの隊の積み重ねの上に立つもので、5次川崎 巌(極点旅行にも参加)隊員、8次吉田栄夫隊員、9次の藤原健蔵隊員、大型雪上車の揚陸に苦労した「ふじ」の松浦光利艦長の4人が講師として登壇、40余年前の南極点へ≠フ熱情を報告した。(Wは越冬隊、Sは夏隊を示す)


★第5次 南緯75度への旅 川崎 巌(5次W、9次W:極点隊員、設営)
 5次隊は1961年1月末から16人が越冬し、そのうち半分が既に亡くなっている。私は設営担当で越冬した。「あなたは当時ほいと≠ニかあんちゃん≠ニか呼ばれていたそうだが、どうしてか」と尋ねた人がいる。当時の昭和基地には、1次からの物資があちこちに埋まっていた。設営担当はそれを掘り起こさねばならない。どこに何があるのか、そして掘ったものを格納する必要があった。
「宗谷」がいる間はいつヘリが飛んでくるか分らない。荷受けをしてきちんと保管するためにヘリポートの脇にテントを張って1ケ月そこに寝て、靴を脱ぐことがなかった。私は「ほいと」(こじき)のような格好になっていた。村山隊長は、私を「あんちゃん」と呼んだ。基地の棟から棟へ、旅行中はテントからテントへ、雪上車から雪上車へ、連絡に走り回った。若衆≠セった。
 南緯75度に初めて到達した模様を報告する。5次隊は昭和基地南方の空白地域を埋め、いつの日か南極点旅行を実現しようという思いをこめて、南緯80度を目標にして、村山隊長以下7名がKD20の雪上車3台に分乗して、’61年10月4日昭和基地を出発した。内陸に入り高度が上がるにつれ雪上車はエンジンから黒煙を吐き、速度が落ち、厳しい寒気の中で難航した。11月に入り、機械担当の荒金さんがもう無理だと考えるようになった。南緯74度10分に達した時、カブースの中で、全員の評定が開かれた。みんなの意見を聞き終わった村山隊長は「ここは74度10分、中途半端じゃないか。75度まで行こう」と言われた。雪上車1台と橇7台をデポ、10日分の食糧と最低機材を持って出発した。しかし雪上2台が折損事故を起こしており、もう限界だとして、南緯74度56分、東経38度26分、標高3232m、温度―53℃と、測定、記録した。11月9日、村山さんは「あと6キロで75度だぞ、行こう!」と言われた。村山さんと藤原、坂口、川崎の4人が歩き始め、いつかは南極点を、と思いを込め4時間歩き、ついに南緯75度(東経38度27分)に達した。南極点は遠いなあ、と思った。
 帰路は、隊員1名が胃痛を起こして1週間停滞をはじめ雪上車のバネの折損など多くの試練に会い、ソ連機に雪上車の部品の投下を依頼するなど苦闘を重ねたが、オーストラリア隊が作成した地図にある「ANARE山脈」が実在しないことを証明することができた。
 こうして南極大陸を走行する技術、装備などを学び、将来南極点に到達するための雪上車の性能テストも行うことができた。それらが9次の極点旅行に生かされたのであった。基地には12月19日に無事帰投した。しかし村山さんにとってはご満足のいかない春の調査旅行であったようだった。


★大型雪上車陸揚げの苦闘 松浦 光利(「ふじ」7次副長、8次艦長)
 南極観測の支援輸送が海上保安庁から海上自衛隊に移り、新船「ふじ」は完成から出港まで僅か4ヶ月で、1965年11月20日、東京港出港、砕氷能力などのテストをする間もなく氷海に入った。再開の7次の主要任務の一つは、大陸旅行用の大型雪上車の陸揚げだった。南極点旅行に使う雪上車の目途をつけるために、この任務は重要だった。
 「宗谷」時代の教則通り「大利根水道」と呼ばれる開氷面に入ることができ、同年12月30日に定着氷に接岸、ヘリポートを作りヘリコプターによる輸送は順調に進み、いよいよ大型雪上車KD60の輸送が最重要テーマになった。
陸揚げの場所探しに苦労し、66年1月24日、基地から北西約50キロのところに
横付けした。後どうやって運ぶか、氷上の自走は難しいという。分解してヘリで空輸する案が出たが、技術的に難しいと分った。
 翌日午後、突如艦長が、船を進めテスト航海をやると言い出し、「出港用意」のラッパが鳴り響いた。船が前進を開始すると意外によく走り、海氷がどんどん後ろに去っていく。一挙に前進、海図のないところは氷に穴を開けてロープを垂らして測量し、27日には基地の東1300mに達し、大型雪上車を陸揚げすることができた。
 第8次は、艦長として出かけた。氷海に入るやチャージングを繰り返し(合計650回)、68年1月4日には基地に横付けできた。輸送も順調に進んだ。ところが8次の鳥居鉄也越冬隊長から、大型雪上車を基地から大陸に走行させるのはたいへんだから、大陸側のモーレン地区に陸揚げして欲しい、調査をして旗も立ててあり絶対安全である、との申し入れを受けた。そこで艦側でヘリコプターによる調査を4回やり、23日に陸揚げを決めた。しかし当日朝になると再び不安が募り、重ねて自らヘリで現地に飛び、雪上に降りて入念に調べた。
ところが氷の割れ目から茶色い暗岩を発見したのである。このまま船を接岸したら大事故を起こすところだった。即刻接岸は中止、雪上車は基地に陸揚げした。まさに天佑であった。こうして苦労して運び込んだ雪上車が、極点旅行に大活躍したのだった。


★極点旅行への8次隊の役割 吉田 栄夫(2次S、4次W、8次W、16次S・副隊長、20 次S・隊長、22次W・隊長、27次S・隊長、 地学)
 一度閉鎖した昭和基地再開には、二つの目玉とされたテーマがあった。極点旅行とロケット観測であり、その準備が課題だった。そして再開2年度の8次隊には宇宙線をはじめとする超高層物理や生物などの観測があったが、夏の間の観測に初めてヘリコプターを使わせてもらい、大きな成果を上げることができた。それまでは測地などに使ったことはあったが、「ふじ」が基地の近くまで来てたくさんの荷物を運ぶことができ、ヘリの使用に余裕が生まれて観測に使えるようになり、感謝した。
 8次越冬隊には、次の9次の極点旅行のために、基地に運び込まれた大型雪上車の本格的な性能テスト、ルートの偵察と物資を集積したデポ作りという大きな任務があった。さらに9次隊が持ち込む雪上車604,605,606号車を大陸に直接陸揚げするための海底地形調査の依頼が電報で届いた。
これらの課題を抱え、4月、5月、7〜8月に内陸旅行やデポ設営などを実施、経験を積んでいよいよ南緯75度への調査旅行を行った。この間8〜9月に東隣のマラジョージナヤ基地(当時ソ連)まで海岸沿いの調査旅行をしたが、その帰途鳥居隊長の雪上車がクラックに落ち、とっさの判断で曳いていた橇を切り離して危うく難を逃れるという危険な出来事があった。
 内陸の大調査旅行は、1967年11月5日に昭和基地を出発、翌年1月15日にかけて実施した。鳥居隊長以下9名、7次が持ち込んだ601、8次の602、603号車、それにKC13号車の4台で編成された。南緯75度までのルート作り、燃料や食糧などのデポ作り、可能ならばプラトー基地(米)に、さらに80度くらいまでのルートを探りたいと考えていた。東経43度に沿って南下、75度を目指した。その間9次隊から、75度で帰りなさい、との指令が来た。推測すると、ほっとくと南極点まで行ってしまうのではないかと心配したのではないか、もう1つはデポ作りをしっかり頼むということだったのだろう。
 75度で、もっと南に行くかどうか、鳥居さんは皆で協議することとされた。慎重な鳥居さんは迷われたのだろう。私は南下を主張した。そして、プラトー基地を目指すことになった。しかしそこからがたいへんだった。雪が軟らかくなり、サスツルギを乗り越えるのに苦労した。雪上車が空回りして、燃料をたくさん使い始めた。しばらく行くと下り坂になってきた。今のドームふじ基地から延びる大陸の尾根を越えたわけで、後は楽になり、プラトー基地に到着した。
 この基地に行った意義は、一つは75度以南の情報が得られたこと、もう一つは基地のブランキー隊長と直接協議をして、9次隊への燃料補給についてマクマード基地(米)と直接連絡を取った上で、それは可能だと言ってくれたことであった。この二つは極点旅行に対する8次隊の大きな役割だった、と思う。


★極点トラバース−観測チーフ兼ナビゲーターの記録− 藤原 健蔵(5 次W、9 次W,地学)
 何事によらず大げさなことの嫌いな村山隊長は、南特委の「南極点に至る調査旅行」(昭和基地−南極点往復調査)を単に「極点旅行」と呼んだが、一般の人に誤解を与えやすい。歴史的に名を残すには、正式名称に近い「極点トラバース」を使いたい。
村山隊長が書かれた「南極点への道」には、観測分野の記述はほとんどない。観測チーフであった私にも責任があるので、この機会に古い記録を拾い上げながら極点トラバースの科学的意味を紹介したい。
「し九次り隊」(しくじり隊)と自嘲する我々の1 年は、越冬隊成立(2/1)、トラバース本隊出発(9/28)、プラトー基地着(11/12)、南極点着(12/19)、昭和基地帰着(1968/2/16)を境に、「深慮遠謀裏目に出た事前準備」、「大ピンチ続発のふじ峠越え」、「太陽いっぱい、大雪原を掘りまくる」、「帰心矢の如しとの葛藤」と表現できる。
 事前準備期最大の見込み違いは、オングル海峡の海氷がブリザードで3 回も流失し、大陸側に揚陸したKD60 雪上車・鉄橇ばかりでなく、8 次隊がF16 に残していた雪上車・木橇の回送・整備が大幅に遅れたことである。
 自然的要因は致し方ないが、8 次隊との連携が十分でなかったのも痛かった。8 次のプラトー突入は確かにふじ峠付近の軟雪情報をもたらしたが、「車両温存、燃料保存」という9次隊要請は受け入れられず、結果的に厳寒期の秋デポをKD20 の2両に13人分乗で敢行せざるを得なかった。
 KD60 の基地回送の大幅な遅れは、昼夜に分かたぬ車両班の努力にかかわらず、トラバース用に艤装・調整を終えたのは8月下旬〜9月初旬、鉄橇を曳いての走行テストや低温・振動下での通信・観測機器のテストに十分時間をかける余裕はなかった。特に電子化された通信・観測機器の取り扱いに習熟する暇がなかったのは大きかった。
 10月初旬の大陸はいまだ冬である。牽引可能ぎりぎりの荷重の橇を連ねて太陸斜面を上るKD60 雪上車4 両の足取りは重かった。上るにつれて気温はどんどん下がり−40度を切る。大陸斜面を吹き下る斜面下降風は雪面を削ってサスツルギとなし、地吹雪を起こして視界を閉ざす。観測項目の多い605、鉄橇2 台を曳く606 は遅れがちであった。その中で雪氷観測中の遠藤が左腕骨折、直ちに昭和基地急送となる。遠藤を基地に残し、彼が抜けた雪氷観測の穴をどうカバーするかを考えながら本隊を追いかけた。5 日目に追いつくと、遠藤の観測機材が橇から下ろされている。「雪氷なくして南極点に向かう意味なし」と隊長に抗弁して機材を再び橇へ…。あの時、私が主張せず、隊長も許さなかったなら、JARE トラバースの評価は違ったものになり、隊長も私も悔やむことになったに違いない。大事において信頼関係の大切さを知る。
 トラバース隊は、−50度の低温、600mb前後の低気圧、さらに密度0.4 以下の軟雪といった悪条件に遭い、燃料鉄橇3台と観測カブース橇の放棄、8次隊からの老兵603 のダウンと試練が続いた。観測関係では人工地震やアイスレーダー等を搭載するカブース鉄橇の残置は予想外であり、観測機器を雪上車に移すやら、帰路に観測するために厳重に梱包したり手を尽くしたが、結局は低温や振動で使用できなくしてしまった。しかし雪氷を含む他の観測については、日程の遅れを心配する隊長に叱咤されながらも、昼夜わかたず皆よく頑張ったものである。
 11月16日にプラトー基地を出発。日本隊にとって全くの未知の世界だが、大雪原は南極点まで下り勾配、しかも沈まぬ太陽で日増しに暖かくなる。こうなると享楽派の多い「し九次り隊」、604 の後部座席でマージャンをやりだしたが、車酔いですぐやめる。雪上車は快調に走り、新幹線並みの運行・観測のスケジュールで南進。プラトーまでの困難に耐え死に物狂いで観測を続けていた隊員たちは、今や鼻歌交じりで観測を楽しんでいる。
 下の図はそれを集約したものだが、雪面の状態(サスツルギ、硬さ、密度、積雪水量)が氷床の高度・勾配・海岸からの距離などにみごとに対応しており、このことから昭和基地−南極点間の氷床は5つの地域に区分できるとして発表した。南極点到達を至上とする極点トラバースにおいて、観測チーフとしての私がモットーとしたのは「多少ラフでも観測点はできるだけ多く、切れ目なく」であった。JARE 内陸調査の扉を開いたと確信し、酷寒・風雪に耐えて頑張った同僚に感謝したい。

<以上、南極OB会報 第7号から引用>
http://www.jare.org/jareOB_Hc/ob_magazine/